Thursday, March 03, 2005

賀川真理 1999 サンフランシスコにおける日本人学童隔離問題 論創社

1906年にサンフランシスコで起きた日本人学童隔離問題の発生理由を、当時のサンフランシスコ市政の特殊な政治状況に求め、考察したもの(修論博論ー慶大法政治−の集大成)

第1章 20世紀転換期のサンフランシスコ市政とアイリッシュの進出
 東海岸ではWASPの差別下にあったアイリッシュがカリフォルニアでは最下層に中国人などアジア系を置き、政治にも進出していった。アイリッシュによるアジア人差別の背景には、アイリッシュ自身の差別体験と政治スタイルによる部分が大きい。不安定な政治・経済状況から、黒人数が少なかったカリフォルニアではアジア人排斥によって団結を図ったと考えられる。

第2章 サンフランシスコ大地震(1906年)と日本の対応
 震災直後より救援活動の対策、義捐金もあつまるがルーズベルトは外国からの義捐金をすべて拒絶したが、州政府が受けることになる。黄禍論のさかんな排日運動の強い時期、日本のイメージを好転させる効果をねらったもの。

第3章 サンフランシスコにおける日本人学童隔離問題
 先行移民である中国人は1954年以降、一般の公立小学校へは入学できず、中国人小学校が設立されたが、1885年テープ訴訟によって公立学校に行く権利が認められるようになった。日本人学童の隔離問題は3回1893年、1905年、1906年。
 在米日本人連合協議会我孫子理事は排日を抑え、日系の定着のために公立学校へ通うことに強く抗議。邦字新聞『新世界』は問題の動向や他紙での記事の紹介または自前の意見文によって不当性を訴えた。
 しかし、実際には、当時汚職事件を暴かれた市長シュミッツやボスであるルーフが、人びとの関心をそらすためにこの問題を掲げたと考えられる。
 ルーズベルト大統領は、国家間関係に及ぶ問題であると判断、連邦政府として措置をとろうとし、また日本の軍事的脅威を煽り、海軍力の増強を図ることに利用しようとした。

終章 連邦政治と地方政治
 アメリカでは州権意識がとくに教育問題で強いが、大統領は州政府に対して国家の権限を誇示した。それは移民制限の協定締結のためでもあり、日本の軍事力への警戒からでもあった。

 日本でいうと部落問題と似た状況。
 西海岸では東よりも2世代早くアイリッシュが政治参加できたと書いてあったが、この時代から150年以上たっても、WASP以外で初めて大統領になったJ.F.ケネディは暗殺されている。黒人やネイティブ・アメリカンやアジア人は命がけで大統領になりたいとはあまり思わないんじゃないか?

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