ハルミ・ベフ 2002 日系アメリカ人の歩みと現在 人文書院
目次
はじめに(ハルミ・ベフ)
日系社会を、グローバル化・苦難の乗り越え・多民族国家への参加 の3点からとらえる
太平洋を跨ぐ北アメリカへの移住—定住をめざす逆境での苦闘(阪田安雄)
日本人の海外出稼ぎがどのような経緯で始まったか、なぜ20C初頭に在米1世になる決意をしたかを概説
日本人契約労働者の海外で稼ぎはM16オーストラリア真珠貝捕獲、M18ハワイ官約移民(広島・山口・福岡・熊本)
1890 日本人誹謗 1900 SF市民大会で日本人排斥要請決議 にも関わらず、多くが在米1世となる
ネットワークでつながる日本人移民社会(坂口満宏)
1896 シアトルとの定期船(日本郵船)→写真妻の呼び寄せ
SF学童隔離問題 →1905 在米日本人連合協議会
日本語新聞・雑誌の発行 1901「日本人」1902「北米時事」
国語学校 1902 日本人会附属小学校→シアトル国語学校
日系開拓史—学芸員の目を通して(アケミ・キクムラ・ヤノ)
全米日系人博物館学芸員
ハワイ
本土への移住 1900 から
強制収容所
日系アメリカ女性の歩み(ゲイル・ノムラ)
ハワイの1世 砂糖キビ・プランテーション→パイナップル産業、家政婦、サービス業、衣服業
本土の1世 農業従事者 洗濯屋、食料品店、レストラン、下宿屋 家政婦、針子、缶詰工場労働者
典型的2世は 1915ー1935 生まれ 典型的3世 1945ー1965 生まれ
1922 ケーブル法 (1936 撤廃) 1世は帰化不能外国人だが2世は米籍なので1世は子どもが成功することに誇りを感じる。
人種差別のため、2世は専門職・ホワイトカラー職には就けない。ハワイでは教職看護職にも就けたが本土では不可煤@1942 強制収容(2/3はアメリカ市民)
1945 戦争花嫁法
1962 マッカラン・ウオルター法(移民帰化法)
戦後 日系女性は政治に進出(特にハワイ) 下院議員バッツイー・タケモト・ミンクなど
戦中期の強制収容と戦後の活躍(ハルミ・ベフ)
戦前:人口問題解決のための政策 1908紳士協定(移民制限)
戦中:1941/12/7 真珠湾攻撃 強制立ち退き(クエーカー宗は日系人支援・日系市民協会は政府に協力)
本土とハワイの違い:ハワイ(ブダ・ヘッド)vs 本土(コトンク) ハワイは要人以外は強制収容無し(人口比 40% : 1%)
戦後:2世3世の世代が力を持つと、日本人会・県人会が廃れはじめ、日本人学校も縮小。50s 60s 黒人公民権運動の広がりが影響
70s アジア系というカテゴリー確立 3世以下はアジア系というアイデンティティを選択 50%が外婚
1980s 強制収容反対者の再裁判勝訴と国家謝罪・補償
多様な日系人社会 第1言語の違い、環境の違い等、複雑 日本人と同一視され、戦後も差別
変貌するリトルトーキョーと二世ウィーク(ハルミ・ベフ)
戦前:
戦後:
1970s: 日本からの資本導入による、日本人町の破壊
1980s: 韓国系進出 1990s: バブル崩壊後さらに韓国系資本日本人町へ
越境する演劇活動—日系三世ロバータ・ウノの世界(山本岩夫)
ニュー・ワールド・シアター
プロジェクト・2050(白人がマイノリティ、有色人種がマジョリティへの人口転換点の予想年)
タイコにみる伝統の創造—日系アメリカ人の新しい音楽(寺田)
鬼太鼓、鼓童の人気
タイコ・ブーム 日系に対する否定的ステレオタイプ(おとなしい、創造性がない等)の払拭のため
LA,SF,SJ,シアトル など
複数の著者の論文集(一般向け)なので重複もあるが、演劇・音楽関係の情報は今まで知らなかったものだった。
芸術的な創造の動きがあるということでいえば、日系アメリカ人というカテゴリーが確立しようとしているかんじがする。
事情は異なるが、在日朝鮮韓国人のアイデンティティの問題で李良枝が書いていたようなことを、日系人は英語やポルトガル語で書いていたりしないのか、あるいは日本語を学ぼうとしたりしているのか、といったことも知りたいことだ。
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